喫茶店で思い耽ったことを

頭の中で整理したりしなかったり

共有

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実は心のどこかで喫茶店を共有のつもりで私有化しようとしていないだろうか。蒐集品を見せびらかす快感にも似た、まさに資本主義社会的消費行動。もちろん、情報を共有する動機はさまざま。インターネット上で発信した情報が他人から関心や共感を得ることによって、あたかも自分の存在価値が高まる錯覚。これは人間に備わっている承認欲求のひとつなので仕方ない。なんとかして共有空間を維持するためのルールづくりに翻弄する店側を他所に、反射的に写真や文字に変換して記録という名の所有をしたくなる。それを誰かに公開する人もいる。いかなる純粋な感動が本当に生まれたとしても、わざわざ投稿する行為自体には僅かでも感情との時差やズレが発生する。最悪、誇張や嘘が紛れる可能性すらある。こんな言い方をすると巡る活動をしている人を非難しているようだが、私自身は少なくとも心当たりがある。心のどこかで罪悪感や不安に苛まれる。そして何もできなくなる。自分の中の邪な潜在意識との対面は避けるのが普通だ。興味本位にマゾヒスティックでないかぎり。同業者()は誰も教えてくれないが、私には失うような地位も名誉もないので書いてみる。


行動報告が日常的になってきた昨今、私を含めた喫茶店愛好家という一部界隈のみにフォーカスすると、少なくとも喫茶店を特別扱いしているから「趣味は喫茶店巡り」などと自称する人もいる。その提示欲を掻き立てる要素は何か。ひとつにSNSのコレクション要素が大きく絡んでいる。例えば編集者の石黒謙吾がプロデュースした『純喫茶へ、1000軒』(難波里奈著)や『昭和遺産へ、巡礼1703景』『昭和喫茶に魅せられて、819軒』(共に平山雄著)は、露骨な数字マウントの典型例だろう。決して著者にではなく、私は編集者に対する嫌なマーケティング意識を感じた。もちろん、本を出版するには売れた方がいいに決まっているので手段は自由でいい。炎上商法だって立派なマーケティングだ。ただ各々の数字に騙されて本を開けば、その大半が一覧表で羅列しているだけだった。かくいう私も「北海道内500軒以上の喫茶店を訪れてきた著者」として本を出版しているが、なんとか自己紹介しようと仕方なく絞り出したに過ぎない。数字は、著名人でもない人間の信頼性を容易に高めてくれる。誰が見ても瞬間的に理解しやすい指標となる。軒数に限らず、SNSのいいね数やフォロワー数を誇示する人も少なくないだろう。私はこれを否定しない。数字によって競争が生まれ、行動力が助長されるケースも多いからだ。この競争から一歩抜け出すには他人とは違う視点が必要になる。名声やビジネスのためだけでなく、喫茶店本来の楽しさを忘れず、新たな価値を見出す人が現れることを期待し続けている。資料やデータの蓄積は史実として必要情報だ、頑張って纏めている人は辞めないでほしい。
また、喫茶店を好む理由にはノスタルジー要素が大きく関わっており、旅情との親和性も否めない。慣れない旅先に溶け込んだような錯覚を味わえるのが喫茶店の醍醐味でもある。ただし、それは一時的な浮遊感によるアドレナリンのせいかもしれない。旅の恥は掻き捨て。実際、地方都市という地縁共同体のような関係性にはポジティブな相互扶助とネガティブな相互監視が不可欠であり、良くも悪くも地域特有の独自性を育て、それに対して部外者が身勝手にノスタルジーを抱き、美談のようにセンチメンタリズムを語られることもしばしばであろう。一般的でない地域性に憧れるのは否めないが、それは自分の住む街にも溢れているはず。たとえばご近所付き合い。町内会はどうだろう。積極的に参加をしたいと思う人々が増加しているとは思えない。少なくとも私の地区での町内会は老人ばかりだ。回覧板すら面倒に感じる。私はそういったストレスから逃げるために田舎を出てきたダメダメ人間だ。地域おこし協力隊のような活動をしている方々には頭が上がらない思いである。地域活性化のメリットよりも起こりうるトラブルが脳裏を過ってしまうのが宜しくない。これが血縁ともなれば束縛が強固になる。時代とともに、人は集合体よりも個を尊重する意識が強まっている印象があるが、反して摩擦も起こっている。あらゆる差別撤廃の邪魔をしているのは日本の人々に秘めらている純血主義だろう。ヒューマニズムを偽った共同体は外敵を作ることによって結束力が高まり、、、あれ、何の話をしているんだっけ。知識がない学者でも研究者でもない私が語るには収束し得ない難解な話題なので中止だ中止。『共有地をつくる』(平川克美著)に影響され過ぎだ私。いや、こんな捻くれた書き方はしていない。とてもいい本だった。


とにかく、喫茶店において互いに求めるべきなのは私有空間ではなく共有空間だという話。今後はSNS映えを意識した店が増える半面、さらに閉じた空間を守る店も増えてほしいと切に願う。今では、撮影禁止やSNS投稿禁止はもちろん、あえてグーグルマップから店の存在を消す喫茶店も現れている事態だ。これからは、古く集落文化では当たり前だった「困った時はお互い様」の精神を現代風に上手にアレンジしていかなければ、表面的な平等ばかり求め続け、悪い意味での配慮ばかりが際立ち、声の小さな者たちは結局取り残されてゆく。各々の地域、各々の店が手の届く範囲だけでも緩く優しい世界であればいい。その世界という存在があると知るだけでも、生きる理由に繋がるとするならば、この社会にとって喫茶店は必要不可欠に違いない。更には、共に作り上げてゆく世界に一つだけの芸術作品にさえなり得る。客としての自分の姿は、画の一部になるような存在だろうか。