喫茶店で思い耽ったことを

頭の中で整理したりしなかったり

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茶店で「一番人気のメニューが売り切れだと知った瞬間に帰ったお客さんがいた」と聞いた。私は「その人にとってこの店は、たったひとつのメニューだけにしか価値がなかったんですね」と言った。我ながら酷い言い方だ、出禁を食らうかもしれない。でも、そのお客さんにとって本当にそうだったのだと思う。言わずもがな、それだけの期待値を客に与える店は凄い。たまに聞く「SNSなどに掲載された現在扱っていないメニューを注文してくるお客さんがいる」という話は、現代の飲食店あるあるかもしれない。最初から頼むものを決めているから、目の前に差し出されたメニュー表を読まない(読めない)人がいるらしい。昔ながら「とりあえずホット(コーヒー)!」と注文する人なら話は別だが。

茶店は何を売る店なのか。コンビニエンスストアのコーヒーとの違い、ケーキ屋のチーズケーキとの違い、レストランのオムライスとの違いはなんだろうか。価値のベクトル。東京の虎ノ門にある喫茶店ヘッケルンのプリンは、なぜ異常な行列ができているか。そこまでして食べたい味なのか。胃袋の底からプリンを欲しているのか。もしスマートフォンを家に忘れたとしても食べに行きたいのか。「実際に食べた!」という履歴を人生に遺したいのか。いや、別に行く理由はなんだっていいか。どちらかといえば、店を出た時に何が心に残っているかのほうが重要である。私だってラーメン二郎でただラーメンを食べたいから並ぶ。札幌で真冬に2時間近く並んだこともある。その日は開店当初から働いていた店員が最後の出勤日だったから、という謎の理由で寒さを我慢して並んだ。翌日ちゃんと風邪を引いた。

1987年発売の雑誌ユリイカ『特集 喫茶店〜滅びゆくメディア装置〜』でデザイン評論家の柏木博は『情報化したカフェの消費』と題して、デザインの視点からこう書いている。「カフェは、新しいか否か、他では得られないか否かということだけが問題であり、また、その情報をどれだけ速く獲得できるかどうかが問題になる。ということは、誰もが知ってしまった時、情報としてのカフェは、情報としての価値がなくなってしまうのである。それゆえ、今日のカフェはその内部空間(インテリア) デザインの差異と新しさを示し続けなければならなくなってしまうのだ。」昭和の喫茶店がインテリアに莫大な金額を注ぎ込んで差別化を図っていたのは、今なお続いている老舗を見れば明白である。もちろん、1987年なんてSNSはおろかインターネットすら身近に存在していない。それでも情報を求めて喫茶店へと人が訪れ始めていたのだ。行ったことがある、知っている、というのが当時のステータスだった。というか、今も本質は変わっていない。SNSで趣味の羅列行為に狂うのも何ら不思議ではない。当たり前で、普通のこと。私もそうしてきた。だから、なんか、普通になりたくないから足掻き抗いたくなる。その結果、しばらく迷走し続けている。情報発信しない私の価値とは。

柏木氏は、我々が営む現代を想像して最後にこう締めている。「わたしたちは、情報空間化されたカフェが全面化する中で、速度を価値とする情報の経済の中に生きる消費者として組織されつつあるのだ。そうした事態は、一方でコンピュータライゼーションされる社会=都市=経済の一つの必然的な結果なのだと言えるかもしれない。」

思い出や記憶という名の自分だけの情報を喫茶店で残していきたい。消費されずに残る、形のない何かを求めて。