
ミスタードーナツでカフェオレを飲みながら読書した。賑やかさとの対峙、ある種の修行だ。スターバックスやドトールなどのカフェチェーンに比べて、マックやミスドの客層には子連れや学生が多い。大人よりも子供のほうが多少騒がしくても許せる。子供がうるさいのは当たり前だから。同じ声量でも、居酒屋で聞こえてくるような酔っ払いの声のほうが圧倒的に苦手だ。音の種類が違う。居酒屋で読書しないから別にいいけど。
カレー屋さんでチャイを飲みながら読書した。本棚を見ると私が持っているルートヴィヒ・クラーゲス『リズムの本質』があった。いや、よく見るとタイトルが『リズムの本質について』で書籍の見た目が全然違った。出版社も違うし、訳者も違う。あー、日本語訳された本はそういうパターンもあるのか。少し読んでみると私が持っている直訳的なやつより言葉がわかりやすいじゃないか。Amazonのレビュー欄にいた両方を読み比べてた人曰く後者の『リズムの本質について』のほうがいいらしい。くそー、また読み直すのかよ。読書って一生終わらないのな。最高。
朝の喫茶店でモーニングコーヒーを飲みながら読書した。Glenn Miller『Moonlight Serenade』が流れていた。月光の小夜曲。月は隠れても、今はまだ夜の続きなのかもしれない。目の前の席に座る老夫婦はモーニングセットを食べ終えると店に置いてある漫画を読み始めた。特に会話もせず、個々の時間を共有する。私は大森荘蔵×坂本龍一『音を視る、時を聴く 哲学講義』(1982年)を読んでいた。
坂本「たとえば喫茶店とか現にいまこの部屋でも音楽が流れてます。ステレオでぼく達がつくっても、喫茶店のこっちのコーナーにスピーカーがある。このへんにもう一方のスピーカーがある。そうすると、へたするとある種の音はこの人には聴こえてない。じゃ、どこで聴いたらいいのか。ここが本当なのか。どこも本当はない。だからどこも本当じゃないよという提出の仕方を……」
大森「その言い方はちょっと私、訂正させていただきたい。どこも本当じゃないと否定形で言うべきじゃないですね。どこも本当だという肯定形で……」
坂本「そういう意味です。うっかりしました」
この少しドキッとするやりとり。哲学者の大森氏はプラトンのイデア論から脈々と続く認識論をもとに、坂本氏の発言を訂正した。対談の面白さは同調だけではなくて、こういった衝突も醍醐味に感じる。対談時、坂本氏は30歳。この年齢で哲学だけでなく科学も踏まえた難解な話をこなしている。互いの立場から疑問点をぶつけ合い、歩み寄り、紐を解く。全6講から構成される本書、その最後の講義は『〈私〉はいない』である。私とは何か。大森氏は1997年に、坂本氏は2023年にこの世を去っている。2人とも、いなくなったのだろうか。
2024年12月21日から2025年3月30日まで東京都現代美術館にて『坂本龍一|音を視る 時を聴く』が開催されている。そう、書籍と同じタイトルの展示。出版から40年以上経過して、当時から抱えていた課題に対する今現在の答えなのだろう。さまざまなアーティストとコラボレーションして音と時を伝えてくれる。聞こえてくる音が鑑賞位置に依存したり、時間の経過や自然現象がリアルタイムで作品に昇華されたり、観察者すらも作品の一部となる。非同期性、非周期性、非再現性などを体感できる。音楽家として五線譜を飛び越えた坂本氏の想いが、あらゆる形となっていた。すべては果てしない好奇心ゆえ。約40年前の書籍にて坂本氏はまるで本展示の意義について解説するかのような後書きを述べていた。
「もちろん各々の専門領域に於いて独自の課題があり、それをおしなべて言うことはかえってクリアーな問題解決の視点を曇らすだけですから、音楽に即して混乱の諸層を眺めてみますと、それまで疑いなくあると思われていた万人共通の理解の土台が明らかに疑がわしくなったということがメイン、それは聴くこと、作ること、奏すること、語ることまで凡そ音楽行為に含まれるもの全般にわたって通底しており、音楽の社会的機能、目的、意志、さえ様々であり得、地理的、個人的にあらゆる可能性が試されるあまり、音楽家は自己のアイデンティティーの重箱の隅まで責任をとらされることとなり、自家撞着に至ってしまった。そこからの脱出の企図として健康な幾人かの音楽家は解体した音楽から、もう一度音を聴くという生身の体験、知覚を問題の中心に据えた作業に重心を移してきた。この僕もその様な音楽以前の音体験に非常な興味をもつものであり、聴覚との関連から視覚のみならず感覚全般の理解に興味をひかれると伴に、知覚ということで人間が何をしているのか、それをどう解釈したら良いのか、その解釈の土台とはどのようなものか等々興味は尽きない」