喫茶店で思い耽ったことを

頭の中で整理したりしなかったり

青年

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モカマタリのデミタスを飲む。カウンター席で本を読みながら思わず寝落ちしてしまった。デザイン性と落ち着きのある内装、客層に安心感があって、賑やかな会話やシャッター音が聞こえない喫茶店を探すのは案外難しい。10年振りくらいに来たけど昔より馴染めるようになった気がした。そのあと行った軍鶏専門料理店で隣りの席に居た老夫婦の会話の中に「Well-being」という単語が聞こえてきた。Well-being。昨今のSDGsの流れで最近再注目されている言葉。 WHOに言わせりゃ"Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity."だそうだ。「とりあえず病気してなきゃ健康だけどさ、肉体的にも精神的にも社会的にもサイコーになってこそモノホンの健康じゃね?」って話。本当にそう思う。

本格的に喫茶店で本を読むようになったのはコロナ禍になってからで、それまでは本を持ち歩く習慣すらなかった。今では、読みたい本をカバンに入れ忘れた時用に読む本を常にカバンの小さなポケットの中に忍ばせておくようになった。仕事帰りの喫茶店で、忍ばせていた林哲夫『喫茶店文学傑作選』を開いた。明治から平成へと時代の変遷ともに喫茶店の雰囲気も変わってゆくのが伝わるような、各々の文学作品が選ばれている。昭和14年に出版された谷崎精二の随筆集『都市風景』に収録された『カフェーの話(大正13年)』を読む。
谷崎潤一郎の弟、谷崎精二は26歳頃から33歳頃までカフェー歩きをしていたそうだ。元々は作家仲間の広津和郎と散歩休憩で寄ったのが始まりで、次第にカフェーそのものが散歩の目的になっていったらしい。当時はカフェーと文学は密接な関係にあった。年齢や職業問わず人々が交差する場所に、文学者たちも惹きつけられるのだろう。そんな谷崎精二にも、カフェー歩きマイブームが落ち着くタイミングが訪れる。

「私がカフェーに足が遠くなったのは、結局私がもう青年でなくなりかけた証拠かも知れない。実際今のカフェーは余りに青年の集合所であり過ぎる。疲れた者が一杯のコフィーに憩いを見出す為めの設備ではなくして、青年がいやが上にも元気を奮い起し、味覚と、 聴覚と、視覚と、或いは其れ以上の官能の満足を求めん為めの、刺戟の強い娯楽場である気がする。中年者がそれぞれの孤独をそっと持ち寄って、ゆっくり落着いて居られるカフェー、そうした物がそろそろ私には必要になった。幕合の劇場の廊下で見られる様な喧騒を私はカフェーで欲しない。汽車の二等室に於ける様な適度の気品と慎ましやかさとを求める。」
谷崎精二の言葉は、最近私が賑やかな喫茶店に居て落ち着かないときの悩みに対する一種の答えのようだった。約100年の時を超えて。流行りや目新しさよりも、心身の憩いを最優先に求めるようになった。それは喫茶店に対する愛が冷めたわけではない。無理せず今の自分の肉体的にも精神的にも社会的にも合った店に通う。いよいよ私も青年から大人になってしまったようだ。オトナブルー。