喫茶店で思い耽ったことを

頭の中で整理したりしなかったり

人間

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正月、函館の実家に帰った。今年で99歳になる祖母は相も変わらず真っ暗な自室の中、PlayStation用ソフト『SIMPLE1500シリーズ Vol.1 THE 麻雀』で遊んでいた。いつからかルールもうろ覚えになってしまい、ひたすら「ポン」や「チー」と鳴くだけのゲームと化していた。それでも鼻歌が聞こえたので楽しんでいるならいいやと安堵したが、喉の調子が悪くて呼吸するときに声が自然と出るようになってしまっただけだった。人間というのは不思議な生き物だ。仏壇に千秋庵のノースマンを供える。祖母はノースマンが好きなので帰省のたびに持っていくけど、ガラッとデザインが変わったのでおそらくノースマンだと認識できていない。代わりに私が食べた。相も変わらず美味しい。

茶店でぜんざいもガレットデロワも食べたし鏡餅も正月飾りも見たし新年の挨拶も交わした。なんだかんだ正月を楽しんだ。楽しめる環境ならば楽しむに越したことはないだろう。できれば怒り悲しみたくはない。

2024年は震災から始まり、次々と報じられる悲しいニュースたちですっかり落ち込んでしまった。一刻も早く平穏が訪れますように。強く願う。なのに意味の分からない情報や人々の怒りが世の中で錯綜していて、それが可視化されたSNSを見てしまった私も感情に任せて何度も呟こうとしたけど、思いとどまっては削除して閲覧をやめた。私の発言なんかでは何も生まれないと思った。山里亮太に言わせれば「その怒りのこぶしは日本の政治にぶつけてください!」だ。怒り方と矛先をもっと熟考するべきだ。近くにいる人たちに対して、直接会う人に対して少しでも優しくしたほうが人間としてマシだと思えた。私は成長したのだろうか、それとも小心者になっただけだろうか。小さな口喧嘩も、世界で起きている戦争も、自分の正義感の扱い方を間違えてしまった結果の衝突だと思っている。幸い、身の回りには極論や陰謀論を強く語るような人はいないので感情を逆撫でられずに助かっているけど、それは当たり前の環境ではないのだと日々感謝しなければいけない。適当にあーだこーだ言える関係を誰かと築けていれば、あらゆる余計な感情が文字として残らずに昇華して空気と化すだろう。そういう意味でも私にとって喫茶店は必要で、そのおかげで私は人間の姿形を保っているのだと思う。

そういえば「人間」と名のつくバンドで思いつくのは人間椅子をはじめ、挫・人間、ぐしゃ人間、BO NINGENなど、ハードだったりサイケだったり捻じれた音楽性が共通している気がする。単純じゃないのが人間。だから憎しみ合い、惹かれ合う。人間っていいな、と心の底から思いたい。人間万事塞翁が馬