喫茶店で思い耽ったことを

頭の中で整理したりしなかったり

承継

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風の噂で、とあるインスタグラムの投稿を知った。語彙力のない月並みな表現で率直に言うと、とても不思議な気持ちになった。東京の向島に店を構える、季節の生ジュースとくるみパンの店カド。行ったことはないが、建物の老朽化により移転をすることはSNSのおかげで知っていたくらい超有名店だ。どうやら、私が個人的に好きな北海道の喫茶店のことばかり書いた『喫茶とインテリアⅡ NORTH』が、東京で歴史ある喫茶店カドに移転のきっかけを与えたらしい。うん、不思議な気持ち過ぎる。投稿内でカドの店主が驚いているように、確かに喫茶店のためにわざわざ遠方へ足を延ばす人が増えた。インターネットが喫茶店を利用する目的の変化を一気に加速させたせいで、その違和感に戸惑う老舗は少なくない気がする。私もインターネットの波に流されそうになった一人だが、店の人と話せば話すほど喫茶店の意味についても考えるようになり、今では身近な場所こそ静かに大切にしている。カドが日立市に移転する理由はきっと資金問題だけではないだろう。あらゆる希望と不安を茨城の潮風が優しく包み込んでくれることを、縁もゆかりも無い北海道から切に願っている。

 
 
 
 
 
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今週は知人の喫茶店に行って、ライヴハウスやコンサートホールで音楽を聴いて、絵や造形の個展に行った。どれも遠いようで近い存在だ。その主体は私たちに何を伝えたいのか間接的で回りくどい(それが本人にとってストレートな意思表明だとしても)。きっと私の本もそうなのだろう。伝えたいことがズバッと単刀直入に結論を言い放って済むような内容ではない場合、人には作品表現という伝達方法がある。だからこそ誰かにとって応援にも青天の霹靂にもなり得るし、想定外な解釈が発生する場合もあれば、ただ過ぎ去って忘れられてゆく可能性もある。それでも作品は何かを訴えるためにどこかへ生まれ落ちる。泣き叫ぶ赤子のように。表現の自由とともに、人類の想像力と創造力を養い合うためカタチとなって、じわり伝わってゆく。

土曜日に空間現代を観た。好きだ。

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