喫茶店で思い耽ったことを

頭の中で整理したりしなかったり

微光

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今は北見行きの高速バスに乗っている。バスターミナルに着くのは0時過ぎ。直前までパット・メセニーのライヴを観ていた。ほぼ予備知識は無かったけど変態ギタリストだという認識だけはあったのでチケットを衝動買いしていた。そのせいで、こんなスケジュールになっている。人並み外れた完璧テクニック過ぎて、奏でる音が違和感無く耳から脳へとスムーズに通っていった。前々日の高速道路通行止めによる5時間運転と、昨日の親戚の葬式による疲れのせいか、ちょっと寝た。だからバスで寝れない今。

旭川の買物公園に宮越屋珈琲がある。21時まで営業しているので宿泊した際には大抵寄る。いつもデミタスを注文する。この店の店主は札幌市内で独立している宮越屋珈琲出身者たちとの繋がりがあって、個人的には北海道の喫茶界では重要人物の一人だと思っている。とか言いながら毎回だらだらと心地好く過ごすだけ。仕事終わりの喫茶店、というルーティンから抜け出せない。流行病の影響も相まって現在、北海道内の各都市における夜間営業の喫茶店は決して多くない。心身の疲れと相談して、夜の散歩がてらコーヒーを飲みに行く。食器や道具に紛れて伊藤博著『珈琲探訪』が置いてある辺りに渋さが滲み出ていた。『珈琲探訪』は1972年に発売された、昭和期におけるコーヒーを科学的かつ文学的に細かく解説された名著。私が本自体読み慣れていないから極端な言い方になるけど、昔の本は情報の信憑性こそ怪しいが語彙のクセは現代にない面白さがある。時代背景も影響してか、簡単に模倣できるような面白さではない。

先日、大友良英のラジオでゲストに菊地成孔が出ていた「今の若い人は上手いし良い人ばかりでジャズシーンが凄い。松丸契とかその中でも飛び抜けてヤバい。昔も上手い人はいたけど悪い意味でヤバい人ばっかりだった」二人は笑いながら今と昔を比較していた。人間性が多少危うい人でも技術や才能があれば光を浴びることができた時代は終わりを迎えつつある気がする。それは本当にいいことなのだろうか。大衆が知らないアンダーグラウンドで狂人が僅かでも奇しく発光し続けていてほしい気持ちと、最優先に平和を求めたい気持ちが混交する。変わらなきゃいけない部分は、きっと変えなきゃいけない。