喫茶店で思い耽ったことを

頭の中で整理したりしなかったり

摩戛

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発言と責任。

情報の扱い方と価値。

 

誰かが無許可で無責任に垂れ流した情報には果たして価値があるのか。

 

私は喫茶店に行くたび店主との会話で得た情報をメモに記録していた頃があった。

それをインターネットで晒したりしていた。

当時は様々な人からのリアクションがあってホクホクしていた。

それがいつからか不安へと変わった。

店に対する裏切りであり、なんだか無粋じゃないだろうか。

私はそんな自分が嫌になり、衝動的にメモをすべて捨てた。

今思えば貴重な情報が詰まっていたかもしれないが、自分の中の何かがそうさせた。

 

私は喫茶店を「利用」するのではなく「利用」していたのかもしれない。

茶店は、店舗である前に人間なのだ。

オフレコだからこそ心を開いて話してくれる話題もある。

それが美談であっても愚痴であっても関係ない。

勝手に暴露して己が善行を積んだような錯覚が怖かった。

 

考えれば考えるほど発言というものは難しい。

あーだこーだ勝手に言えば言うほど店側とのズレが生じるかもしれない。

ちゃんと許可を取ったり、頼まれた訳でもないのに。

単純に食べた物だけを撮影して「美味しー!」って書き込むくらいが誰も傷つけないベストな発言なのかもしれない。

 

っていう葛藤に悩まされたことはないんだろうか、店を使って自由に発言している人たち。

いや、店だけではない。

人が携わったものすべてに対して。

 

私は自由にしてきた分、今では罪悪感に陥ることが多い。

そもそも他人が見ている場所で発言する必要がある話なのか、とか。

それは店の人が見たとしても絶対に不快感を抱かないのか、とか。

私は馬鹿だから、そんなことをふとした時に忘れて、ふとした時に思い出す、を繰り返している。

 

しかし。

 

今までにインターネット上を漂う情報で助かったことは何度もある。

勿論、真実かどうかは確かめなければならない。

鵜呑みにしてはいけないことばかりだ。

その選別精度は、結局自身の経験値に左右されるのかもしれない。

自由奔放に紡がれた言葉は、将来的に価値ある貴重な遺産になるのだろうか。

それとも、一生消すことのできない負の烙印となってしまうのか。

 

あー難しい。