喫茶店で思い耽ったことを

頭の中で整理したりしなかったり

斜里

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お盆休み。葦の芸術原野祭のために初めて斜里町を訪れた。思えば、斜里発のリトルマガジン『シリエトクノート』をはじめ、ドキュメンタリーとフィクションを行き交う摩訶不思議な映画『Shari』(上映タイミングが合わず未鑑賞だがとても観たかった)、きのとやが手掛ける冬限定ショコラブランド『SNOWS』のパッケージにデザインされていて知った版画家の大谷一良氏、札幌の喫茶こんで偶然出逢った斜里出身の作家の木野羊氏など、知らぬ間に斜里の断片に触れていたのもあり行ってみたかった場所のひとつだった。「シャリ」はアイヌ語で「葦の原」を意味する。

葦といえば、フランスの思想家ブレーズ・パスカルは随想録『パンセ』の中に「人間は一本の葦に過ぎない。自然の中で最も弱いものである。だが、それは考える葦である」という有名な言葉を残している。

葦の芸術原野祭は、斜里町内外の作家たちだけでなく、訪れる人々が誰でも参加できるプロジェクトやパフォーマンスが印象的で一体感がある。その眩しさゆえ、私は町外から訪れた余所者として若干の後ろめたさがあった。斜里に到着して、最初に訪れたのはヒミツキチこひつじ。隅の席に着いて心を落ち着かせる。腹ごしらえにきつねうどんを注文した。私の後ろで常連さんらしき人が歓談していたのでなんとなく振り向くと、いきなり犬に襲われた。いや、戯れ付かれた。まるで斜里が私を歓迎してくれたように感じて、とても嬉しかったのを覚えている。その後は会場の旧役場庁舎に向かい、展示された作品の数々をじっくりと眺めた。夕方、野外公演のバストリオ『セザンヌ斜里岳』を観た。背景の斜里岳に圧倒されながら強い風を浴びた。夜、会場で購入した松本一哉氏のアルバム『無常』をカーステレオで聴いたが、明らかに車内の粗悪なスピーカーに向いてない音だとわかった。せめて自宅にあるJBL 4311Bのスピーカーを通して聴くべきだと悟った。翌日は、喫茶知布泊でオホーツク海を眺めながらたまごサンドをいただいた。ベランダの鳥小屋に集まる野鳥。首を振り続ける扇風機のぬるい風。店内を自由に行き来する犬。話好きな2人のママさん。このままずっと過ごせそうだった。後ろ髪を引かれながら、北のアルプ美術館へ。ここは1958年から1983年まで発刊されていた山の文芸誌『アルプ』の魅力を伝え続けている私設美術館。圧倒された。愛に満ち溢れていた。哲学の塊だった。そして腹が減った。街に戻って喫茶亜里州でランチを、と思って入店したら閉店30分前。諦めて帰ろうとしたら「食事ですか?まだ大丈夫ですよ」と。やさしさに甘えてナポリタンとアイスコーヒー。心身ともに満たされた。斜里を離れる前に名残惜しくなって、二度目の旧役場庁舎へ。スタッフに顔を覚えられていて嬉し恥ずかし。ぐるーっと建物内をゆっくり、ゆっくりと噛みしめるように巡った。旧役場庁舎は1929年に建てられ、1970年からは町立図書館として利用されていたが2014年に閉館。北海道内で昭和初期から残っている洋風建築は珍しく、建物を維持し続けている斜里の街の強い思いが感じられる。建物は人が行き交わなくなると寿命が一気に縮まる。葦の芸術原野祭が行なわれることで人々が建物内の床を踏み、壁に触れ、構造を目にし、呼吸をする。そして考える。

パスカルの言葉「考える葦」には、続きがある。「我々の尊厳のすべては、考えることの中にある。深く考えるように努めようではないか。考えることに生きる道徳の原理がある」