喫茶店で思い耽ったことを

頭の中で整理したりしなかったり

悄悄

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文筆家の岡田育がツイッターをやめる経緯をブログに書いていて、改めてツイッター及びユーザーの現状に落胆した。
https://okadaic.net/archives/15576
「今まで以上に加速するデマや誹謗中傷を飛ばし合い、今まで以上に過激に排外的に荒れていく日本語圏Twitterを眺めながら、せめて何かの役に立てばと、日にいくつか他人の発言をRTして力を添えることもある。それもそのうちやめるかもしれない。今は推し俳優の公式アカウント運営だけが気がかりだ。まぁ後援会会報があるので何とかなるだろう。もう紙媒体と独自ドメインしか信じられないよ。」
紙媒体と独自ドメインの信頼性、とてもよくわかる。私もツイッターで拡散されている情報の陳腐化には辟易していた。いつからか、自分のツイートを拡散されることすら恥じるようになった(もちろん好きな人からの反応は嬉しい)。特徴的な写真や説明口調の文章にすればするほど他人からのリアクションを貰えるが、何か違和感があった。結果、私的で曖昧でつまらないことばかりしか呟けなくなった。自分の店や作品のことを自ら語る言葉には価値があるし、記録されるべき貴重な内容だと思う。直接会えないような友人知人や好きな店や好きな作家の情報を得られなくなるのが惜しくて、未だにツイッターのタイムラインを見に行ってしまう。そして余計な言葉も目に入る。いや、余計ではなく大切な話でも勝手に落ち込むことがある。

銭湯活動家であり複数の銭湯を継業している湊三次郎のツイートを見て勝手に落ち込んだ。
「客でいる方が楽なので、客で居続けたいけど。指咥えて傍観したり、消えてくのを嘆くのは性に合わないし、耐え難い。自らできることを最大限やる。やっている。お客さんは、経営や業務がどうのとか知らなくても、自由にあーだこーだ言っていいので、羨ましくも思う。もちろん、一客として自分にもその権利はあるのだが、少なくとも銭湯については、この8年間で色々と味わったし知ったので、謙虚さというか、慮れる心のゆとりが自然と身についたと思う。茶の間でテレビ観ながらあーだこーだ言うレベルにはご自由にどうぞだけど、それ以上に言うなら、ご自身で、自分の時間、体力、精神、お金を削って、まずやってみたらいいのにとは思う。まぁ、しんどいし、誰もやらない、続けられない理由がよくわかるので、自ずと謙虚になれる。」
部外者から好き勝手言われつつ、未来を見通せない自営業を続ける人々にとって非常に心強い言葉だと感じた。経験者にしか言えない芯のある言葉だ。その反面「客は楽」という部分に引っかかってしまった。何も間違っていない。だからこそズキッと心に響いた。私は喫茶店の店主や従業員から悩みを度々聞く。業界人でもなくインフルエンサーでもない立場の私には、どうやら好き勝手言いやすいらしい。共感もできなければ的を射る助言もできないし、かと言ってその悩みを世間に代弁する必要もない。私が言葉を捻り出しても空振りしているのがハッキリとわかる。だから適当な話で笑い合う。「何とかして助けなければ」という使命感が生まれる時もあるけど、グッと堪える。まず客としてできることは、店を思い続けて利用し続けることしかない。そういう関係性のほうがいい。客は、楽なのだから。